第8話




「いいよ。」

千夏が自分から言い出したことだったが、本当に引き受けてもらえるとは思わなかった。

呆気にとられた顔で謙太を見てしまう。

「・・・ほんとにええん?」

「うん。自分の勉強にもなるし・・・。」

これは夢で、私は本当はまだ目を覚ましていないんじゃないだろうか。

うれし過ぎて、本当に夢を見ているようだった。








家に帰ってからも、球場でのことが忘れられない。

『じゃあ、明日から11時に図書館でいい?・・・それじゃ、また明日・・・。』

少し照れながらそう言った謙太を思い出して、ベッドの上で思わず笑顔になる。

本当に信じられなかった。

明日が来るのがこんなに楽しみで、緊張するのは、修学旅行の前日以来だった。

クローゼットとタンスの引き出しを開け放して、明日着ていく服を選ぶ。

「これでええかなぁ・・・。けど図書館行くんやし・・・。」

なかなか決まらない。

せっかく謙太と二人で会えるのだから、少しでも良く見てもらいたい。

ほんの少しでも、かわいいと思ってほしかった。

1時間程悩んでようやく決まると、ふとんに入った。

眠れない。

いつの間にか日付が変わって、謙太と会うのは今日になっていた。

約束の時間まで、あと10時間。

時間が経つのが遅く感じられ、もどかしかった。

早く、早く、彼に会いたい。

この前の図書館での出来事なんて忘れてしまうくらい、楽しみな気持ちが心から溢れていた。












朝、機嫌良く開いたカーテンの向こうは曇り空だった。

それでも千夏の心には夏の青空が広がっている。

「千夏、図書館行くんなら傘持ってった方がいいわよ。降水確率30パーセントやって。」

「分かった。いってきまーす。」

玄関で母に声を掛けられ、折り畳み傘をカバンに入れて家を出た。






約束の時間は11時だったが、千夏が図書館に着いたのは開館時間である10時だった。

昨夜遅く寝たにもかかわらず、今朝早く目が覚めてしまった。

家にいてもソワソワして落ち着かないので、図書館に来たのである。

いつもの席に座り、家を出る前に何度も確認した教科書、ノート、参考書をカバンから取り出す。

謙太が来るまであと1時間。

緊張してきた。

この服おかしくないかな・・・?髪型も変じゃないかな・・・?

一度目を閉じて深呼吸する。

そして、教科書を開いた。




窓の外が少しだけ明るくなった気がして、顔を上げる。

見ると、灰色の雲の間から太陽の光が射していた。

「わぁ・・・天使のはしごや・・・。」

体育の授業でテニスをしていた時に、朋子が教えてくれた名前を思い出した。

今日は雲の流れが速い。

やわらかな色の光は雲によって隠されては、また射す。

千夏はしばらくの間、そんな空の様子に目を奪われていた。

「おはよ。」

その声を聞いた途端、心臓が音を立てて脈打った気がした。

「おはよぅ。」

謙太の方を見る。

目が合った。

彼と目を合わせて話をしている。

それだけでしあわせな気持ちになった。

「始めよっか。」




「関係代名詞っていうんは名詞を修飾して・・・。」

謙太の教え方はうまいと思う。

謙太からすれば当たり前のことを訊いているのかもしれないのに、一つ一つ丁寧に説明してくれる。

ドキドキする気持ちは変わらないけれど、謙太が真剣に教えてくれるので、

千夏も勉強に集中することができた。

ふと謙太は腕時計に目を落とした。もう1時を過ぎている。

「腹減ってない?」

「あ、そろそろ何か食べたいね。」

本当は、まだあまりお腹は空いていなかった。

勉強中にお腹が鳴るのを防ごうと、朝ごはんを多めに食べてきたからだ。

けれど謙太と勉強以外の話もしたかった。

「じゃあ一旦ここで止めて、外出よう。」

教科書やノートはそのままにして、二人は図書館を出た。






図書館は駅の近くなので、駅の中にあるファーストフード店で昼食をとることになった。

食べながら、まだ少しぎこちない会話をする。

訊きたいことが多すぎて、千夏は気がつくと謙太に質問していた。

謙太は少し考えて、時に冗談を交えてそれに返す。

野球のことを尋ねると健太の口数が増えるので、やっぱり好きなんだなぁと思う。

好きな人が好きなものを知りたくて、自分も好きになりたくて、必死で野球を勉強してよかったと思った。

仕草を見て、話を聞いて、謙太の知らなかった一面を知る。

今まで野球をしている謙太しか知らなかったから、謙太のことを知っていく度うれしくなる。

それが顔にも出てしまい、千夏はさっきから笑ってばかりだった。

直そうと思っても、謙太を見るとまた口元が緩んでしまう。

これから、もっといろいろな面を見たい。

けれど不安がない訳ではなかった。

図書館での出来事が今では幻か何かだったように思えるけれど、確かに謙太だった。

怪我のことがあるから、仕方なく勉強を教えてくれてるんだろうか。

私のこと嫌いなんじゃないだろうか。

考えても考えても、答えは出ない。

それでも今は、ただ一緒にいたい。






図書館に戻る途中で、ポツポツと雨が降り始めた。

「うわ、傘持ってないのに・・・。」

「あ、あたしあるよっ。」

急いでカバンから折り畳み傘を取り出す。

「一緒に・・・。」

傘の骨を伸ばして、謙太の前に差し出した。

「ありがとう。」

水色の傘がぱっと開く。

「オレが持つよ。」










辰雄は本屋から出たところで、雨が降っていることに気づいた。

「やべっ。はよ帰らんと・・・。」

自転車に乗り、駐輪場から道路に目を向けた時、道路の反対側で千夏が誰かと歩いているのが

見えた。

「なんで千夏と・・・川原が一緒におるんや・・・?」

千夏が自分以外の男子と二人でいるのなんて、見たことがなかった。

しかも相手は東中学校の川原謙太である。

同じ市内でお互い二年生からレギュラー、そして現在4番であることから、辰雄は

謙太をよく知っているし、ライバル視していた。



強くなる雨の中、辰雄は二人を黙って見ていた。













   





SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送