序章 桜の花が散り、緑色の葉が鮮やかな中学二年生の五月。私は忘れられない恋をした。 「やけん明日の試合、絶対観に来いよ!」 更衣期間の初日から当然のように夏服を着ている坊主頭が、これで三度目になる台詞を言った。 「だってあたし野球部で話すんとか辰雄くらいやし。興味ないよー。」 千夏が先程と変わらない返事を返すと、辰雄は怒ったような悲しいような顔になる。 「ええけん来いって。オレが初めてスタメンで出る試合をお前は観んのか!?」 「・・・分かった、行く行く。辰雄ほんっまはよ観に来てくれる彼女作りよ。」 「・・・・・・うっさいわ。じゃあな。」 大きな部活用のカバンを揺らせてグラウンドに向かう辰雄を、千夏は手を振って見送った。 試合のある球場は、市の中心にある城の中に公園や動物園などと共に造られたもので、 グラウンドには青々とした 天然芝が敷かれ、スタンドは石造りだった。 五月というには強過ぎる日差しは、今年初めて着た半袖から覗く腕に容赦なく降り注ぐ。 「あぁっ。辰雄また三振・・・。」 「東中のピッチャー強いなぁ。これじゃ南中勝てんかもねぇ。」 千夏と朋子はスタンドに肩を並べて座って、試合を見守る。 「にしても、結構応援に来てる子おるんやね。ちょっとビックリした。」 朋子がパタパタと手で顔を扇ぎながら言う。 スタンドには応援に来たであろう中学生が十数人ほど見られたが、圧倒的に女子生徒が多かった。 「川原君やっぱカッコええなぁ!!二年やのにエースで4番打っとるもんね。」 「応援来てるん気づいてくれとるかなぁ!」 少し前に座った東中学校の制服を着た二人が興奮気味に喋っている。 「ちょっと千夏!あのピッチャー二年やって!!・・・・・・千夏?」 その時グラウンドでは南中がスリーアウトとなり、攻めと守りが交替しているところだった。 話題にされていたピッチャー川原謙太は、走ってベンチに戻っている。 先輩に話しかけられ、ピッチング中の恐いくらいの真剣な表情とはまるで違う、 照れたような笑顔を見せた。 私はその笑顔が目に焼きついて、その時もそれからも離れない。 夕方になり太陽が西に傾くと、昼間の暑さが嘘のように涼しく感じられるようになった。 「あーオレ全然ダメやな。」 「そんなことないよ。田岡君今回が試合出るん初めてやったんやろ?」 珍しく肩を落としている辰雄を朋子が励ます。 「ねぇ千夏、田岡君がんばっとったよなぁ?・・・もぅ聞いとる!?」 「千夏・・・どしたん?」 「試合の途中からずっとこんなんなんよ。」 「・・・あたし、恋をしましたっ。」 二人が心配そうに見つめる中、突然千夏がそう言った。 話の展開についていけず、朋子と辰雄はきょとんとしたまま動けない。少しの沈黙が落ちた。 「・・・・・・オレに?」 「・・・・・・・・・・・・誰がアンタによ。」 涼しい風が、吹き抜ける。 恋の神様は千夏にチャンスを与えてくれないまま季節は廻り、五月も過ぎて、 中学三年生の夏が訪れた。 その日の帰りのホームルームで配られた進路調査票を見て、千夏は溜め息を吐いた。 「千夏ー元気ないなぁ。・・・まぁ分かるけど。」 「どうすん?やっぱ西高目指すん?」 朋子と真白は千夏の机を囲み、同情半分からかい半分に言う。 「西高なんてあたしじゃ無理やし・・・。けど謙太君は西高やろ・・・?」 再び溜め息。 西高とは西城高校の略称で、西城高校は県内屈指の進学校で知られている。 東中学校にいる真白の友達の情報によると、謙太は西城高校を受験するらしかった。 「千夏、この前の中間何位って言うとったっけ?」 「・・・後ろに50人くらいはおるよ。」 「ウソ!?ウチの三年、全部で320人ぐらいおるんやで!?」 「やっぱそれで西高は厳しいよー。」 「つきこもはくちゃんもひどいしっ。ええもん、あたしこの夏休みは毎日図書館通って勉強する! 次の学習の診断、二人とも見とってよ!!」 勢い良く椅子から立ち上がってそう宣言する千夏に、朋子と真白は顔を見合わせた。 千夏が市立図書館に着いた時には、開館前にも拘わらず既に数人が出入り口が開くのを待っていた。 二、三分して自動ドアが開き、千夏は大きな窓に面した二人用の席に座る。 宣言通りに図書館に来たものの、受験勉強として何をしたらよいのか分からなかった。 とりあえず夏休みの宿題である数学のワークに取り掛かるが、苦手教科だということもあり はかどらない。 集中力が途切れ回りを見渡すと、自習用の席は大方埋まっているようだった。 ふと窓の外に目を移す。七月の終わりの空は朝から晴れ渡り、入道雲が浮かんでいる。 去年の今頃は毎日遊びに出掛けていた。今年だって海水浴に花火大会、行きたい所は沢山あった。 海はお盆を過ぎてしまうとクラゲが大量出現するし、浴衣を着る機会なんて花火大会くらいしかない。 千夏は我知らず溜め息を吐いた。 謙太を好きになってから溜め息が増えた。 友達から謙太の話はいろいろ聞いた。観戦できる東中野球部の試合は全部行った。 けれども話を聞く度に彼を遠く感じ、試合を観に行っても話しかけることも何もできなかった。 だからもし叶うなら、この夏は勇気と彼との思い出が欲しかった。 カタッ。 隣りの椅子を引く音がして、そちらに目を向ける。その瞬間、息ができなくなる程の衝撃を受けた。 隣りに座ったのは、一年間想い続けた川原謙太だった。 嬉しさと緊張で考えがまとまらない。さっきまで当たり前にしていたことがうまくできなくなった。 シャープペンシルを取る動きすら不自然な気がした。 とにかく勉強を再開しなくてはと、慌ててノートを開く。その拍子に消しゴムが謙太の前に転がった。 謙太は本を読み始めていたが、そのことに気付き消しゴムを手に取った。 「あ、ありが…」 千夏が受け取ろうと手を出し、震える声で感謝の言葉を言い終わる前に、 謙太はノートの上にポンと消しゴムを置いた。 そして何事もなかったかのように、再び本に目を落とす。 謙太の目に千夏は全く映っていなかった。 千夏は期待し過ぎていた自分が恥ずかしく、また謙太の態度が悲しかった。 こんなに側にいるのに、彼は私のこと何も知らないんだと思い知った。 数学のワークは一時間経ってもほとんど進まなかった。謙太が気になり集中できず、 計算ミスを繰り返したからである。 謙太が動く気配がした。立ち上がり、そのまま荷物を持って行ってしまう。 こんな気持ちじゃ勉強できないと思った千夏も、少しして席を立つ。 落ち込んでいたせいもあり、俯き加減に歩いていると、出入り口の前で人とぶつかってしまった。 鞄が落ち、中に入れていた筆箱が開いて筆記用具が散らばる。 「すいませんっ。」 顔を上げると、そこに立っていたのは謙太だった。急いで筆記用具を拾うが、 恥ずかしくて謙太を見ることができない。 「馬鹿だな。」 褪めた小さな声が聞こえたと同時に自動ドアが開き、謙太は行ってしまった。 千夏は少しの間、呆然と自動ドアを見つめていた。 あの一言は本当に謙太が言ったんだろうか。 家に帰り考えた。 一年間謙太を見てきた。彼は優しい人だと思う。けれど─── こんなに遠いから、本当は私も彼のこと何も知らない。 そう気付いた。 ▼もし、気に入っていただけたら、投票お願いいたします。▼ |
SEO | [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送 | ||