果てない悲しみ

 

 

 

その報を聴いたとき、

 

脳裏を掠めたのは随分昔、

 

まだ、壬生に屯所を置いていたときの彼の姿、

 

激務の最中、誰よりも熱心に隊士を稽古したのは彼だった、

 

誰よりも忙しいくせに、毎日毎日汗だくになって、

 

声を張り上げて、実戦経験の浅い隊士達がすこしでも帰って来れるように、

 

そんな反面、厳しい処断を行った。

 

組織を纏め上げるため、

 

『鬼』

 

と呼ばれようが、どんなに忌み嫌われようが、

 

すべて、強い意志の下、完遂した。

 

新撰組を守るため、

 

そして・・・・隊士を守るため、

 

そんな、強い人だった。

 

これでいい・・・・・

 

ぽっかりと空いた心、そんな言葉だけが浮かんできて、

 

悲しみも怒りもわいてこなかった、

 

これで・・・良かったのだ、

 

もし・・・・このまま降伏すれば彼は真っ先に処刑される、

 

局長のように、身勝手な勝者の驕りで、

 

それをよしとせず、自害なんてしやしない、

 

新撰組は怨まれているから、

 

彼が死んでも、次のものが厳罰に処せられるだろう、

 

なら、自らがすべて引き受ける人だ、

 

そんな、優しい人だった。

 

だから・・・・・・これでよかったのだ・・・・・・・

 

そうは・・・思っても、どうしてもきえない、

 

むねの痛み、

 

いつまでも、去ってくれないあの日の姿、

 

 

 

「・・・・・副長、お疲れ様でした・・・・・・・・・」

 

 

 

こみ上げてくる涙とともに、ゆっくりと吐いた言葉に

 

ひろがっていく悲しみ、

 

顔を上げればどこまでも広がる空に、

 

彼の人が生まれ育ったという

 

武州の風が吹いた気がした。

 

 

 

 

 

弁天台場にて、島田魁     (3月18日計都)

5月11日、箱館戦争末期、土方歳三は一本木関門(異説あり)

で腹部に銃弾を受け、戦死しました。

彼が育て上げ、率いてきた新撰組隊士はその時

弁天台場で孤立し、その救援に向かう途中であったそうです。

でも、その時京都時代の新撰組隊士は数えるほどしかいませんでした。

島田魁は文久三年(新撰組発足年)入隊の最古参の隊士です。

彼はその後、明治になっても政府に出仕することなく、

新撰組が屯所とした西本願寺で警備の仕事に尽きます。

死ぬまで、懐に土方の戒名を書いた紙を入れていたとか、

そして、土方が戦死した後、新撰組は相馬主計が最後の隊長となります。

もう、降伏寸前の五稜郭からしてみればそれは隊をまとめるためだけの

存在であるのにもかかわらず、

無期の島流し(後にゆるされる)という厳罰に処せられたのは

やはり、新撰組であったからでしょう。

 

 

 

 

 

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